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Ⅱ.今後長期間続く人口減少時代への対処

 過去30年間の少子化対策の無策により、子供を生める年代の女性の数が年々減少しているので、今後20~30年間は日本の少子化の進展は避けがたいと言えます。日本人の数が年々減少するのは確実であり、一方長寿命化により高齢者の比率が高まることも確実です。この現実は受け入れる以外に方法はありません。そこで少子高齢化の進行する中で、私たちは如何にすべきかを考え実行してゆく必要があります。

10.11.日本の歴史的な人口推移

 少子高齢化が避けられない状況の中で、何をすべきかを考えるために、日本列島の歴史的な人口の変遷を見てみます。鬼頭宏氏著『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫1430の表1から筆者が図10—5を作成しました。平成22年と令和2年の値は筆者が追記しました。図10—5を詳細に読み取り、関連事項の調査により次のことが分かりました。

奈良時代(725年)から平安末期(1150年)までの425年間の人口の変化は次の表10—1のようになっています。

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 この425年間の年平均人口増加率は人口1,000人に対して年間に僅か0.97人の増加であり、人口は殆ど増えていない静止人口社会と言えます。当時は医療も発達していなかったので、乳幼児の死亡数が多くかつ平均余命が短く、その結果人口が増減しない静止人口社会であったものと推測されます。

平安末期(1150年)から慶長5年(1600年)までの450年間の人口変化は次の表10—2の通りです。

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 この450年間の年平均人口増加は、1,000人に対して年間に1.3人の増加で、奈良時代から平安末期までの期間より僅かに増加率が高くなっています。この期間は、鎌倉時代、室町時代、南北朝時代、戦国時代、安土桃山時代であり、各地に戦国大名が成長し、次の安定した社会構築の基礎ができた期間と言えます。その結果人口も増え始めたものと推測されます。

慶長5年(1600年)から江戸時代の享保6年(1721年)までの121年間は表10—3の通り人口が増加した期間でした。

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 この121年間の年平均人口増加率は人口1,000人に対して年間に7.76人の増加で、平安末期から慶長時代に比して5.97倍の人口増加率になっています。この期間は1603年の江戸幕府の成立により日本全体の地域社会が安定して、日本全土から戦闘が消え、その結果人々が安心して出産して人口が増えたものと推測されます。

江戸時代の享保6年(1721年)から弘化3年(1846年)までの125年間は表10-4の様にほぼ完全に人口の増減が無い静止人口を保った期間でした。

10-4訂正

 この間の年平均人口増加率は人口1,000人に対して年間に0.42人の増加でした。この時代は士農工商の身分が代々固定されており、その上鎖国により海外からの新技術や新情報が入らず、医療技術も進歩せず、食料生産は上限に達し、近代産業は無く農業・漁業・家内工業に限られ、その結果として人口はほぼ一定になったものと推測されます。
 この時代の平均余命の推移は『人口から読む日本の歴史』の177 ページによると、「17世紀には20代後半ないしは30代そこそこであったものが、18世紀には30代半ばとなり、19世紀には30代後半の水準を獲得して、明治中期の水準につながったものと思われる」と記されています。平均余命には地域差と階級差があり、旗本階級は平均余命が長かったようです。

江戸時代の弘化3年(1846年)から明治13年(1880年)の34年間に人口変化は表10-5の通りです。

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 この間の年平均人口増加率は人口1,000人にすると年間あたり3.16 人の増加でした。この期間は幕末から1767年の明治政府の成立、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争を経て、日本の新しい統治体制が出来上がってきた過渡期でした。

明治13年(1880年)から平成7年(1995年)までの115年は表10—6の通り人口の爆発的増加期間でした。

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 この間の年平均人口増加率は人口1,000人に対して年間に10.94 人の増加でした。明治・大正・昭和・平成の統治体制が日本の隅々まで行き渡り、新しい教育・医療・産業と政治体制が整い安心して出産し幼児死亡率が減少し、人口が爆発的に増加しました。
 一方、1894~1895年の日清戦争、1904~1905年の日露戦争、1910年の日韓併合を経て1920年の国勢調査では5,593.6万人となり5,000万人以上は食料が不足するとの人口過剰論から海外への移民促進と産児制限論が生れました。
 しかし、1931年の満州事変による全満州占領、1937~1945年の日中戦争と1941~1945年の太平洋戦争に多くの軍人を必要とする軍部により「生めよ増やせよ」との方針が出され産児制限は禁止されました。
 1945年の敗戦、米軍による日本統治、1951年サンフランシスコ条約締結による主権回復と、激動の時代を経ても人口が毎年100万人以上も増え、再び産児制限論が盛んになり、妊娠中絶と避妊が公式に認められました。その間に輸出入が自由化され、多くの新技術・新製品が開発・導入され、近代産業が勃興し、食料や原材料・資源も輸入され、世界各地への製品輸出が拡大され、農村から都市部へと人の移動が起こり、日本の急な経済成長を支え、人口の急増を吸収しました。

平成7年(1995年)から平成22年(2021年)までの15年間は表10—7の通り日本の人口がピークに達した期間でした。

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 この期間は15年間で人口が2%増加して2010年に1億2806億人に達しましたが、これが人口のピークでした。
 これは本書の中で度々言及したように、この期間は1990年代から始まった失われた30年の前半の期間に当たっており、1989年に日本経済がバブルの最高潮に達した後、バブルが弾け、低賃金の非正規雇用制度が導入され、長時間残業が常態化し、日本企業の海外進出と移転が進み、GDPが30年間全く成長せず、一般世帯の年収も100万円も低下し、その他すでに述べた理由により、少子化が始まりました。政府は少子化対策を行いましたが、全く的外れの児童対策に終始し、少子化の防止にはなりませんでした。

2010年の12,806万人をピークにして、2021年には12,557万人と11年間で0.98倍になり人口が2 % 縮小し、日本の歴史上初めての人口減少期に入りました。

 合計特殊出生率が人口を一定に保つ水準の2.07より低下したのは、図1—1に示したように1975年からです。しかしそれから35年の後に総人口が減少し始めたのです。それは1975年から2010年までの35年間は出産可能な女性の人数が多く、高齢者がまだ少なかったので死亡者が少なく、人口減少が始まらなかったのです。
 このように、人口の変動は、原因が作られてからその影響が現れるまでに長期間を要することが解かります。